2010年05月18日

『東京下町バカ写真屋』も5周年ということで(第13回)

皇居大手門内側から見た大手町
前回の続き。

「優秀な者は優秀な部下を育てられない」
という言葉を聞いたことがある。

周囲から「スゴいこと」と言われても、
それが当人にとっては自然な日常レベルにまで昇華していると、
下位の者に対する指導・アドバイス等が
相手の習熟度や立場、あるいは感情だとかを無視した
的外れなものになりがちだ、
みたいな話なんだと思う。

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ビジネスにも当てはまるのかもしれないが、
スポーツや芸事等の実技では、
ある程度の(かなりの)物量をこなしていくとある時期、
カラダ全体に電気が走るような感覚をおぼえることがある。
自分の能力レベルが上がったことを、
自分の顕在意識がハッキリと察知した瞬間である。

勿論これは素晴らしいことなのだが、
一旦レベルが上がって「出来て当然」状態になると、
大変だったはずのプロセス(の苦労)すら思い出すのが難しくなる。
自ずとそこで得た感動みたいなものも忘れがちになる。
結果的に、レベルの違う(下位の)者達との
目線や感じ方が違ってきてしまうのだろう。

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そういえば、
「ガミガミ言う口うるさい優秀な者(経営者等)の下には
 優秀な部下は育たない」
という言葉も聞いたことがある。

恐らく当人には部下が無能に見えて我慢がならないのだろう。
あーだこーだと事細かく指示しそれ以外を認めない。
そうするのが最も効率がいいのは自分が一番よく分かっている。
しかしそうしていくうちに社内には、
自分でものを考えないカルチャーが蔓延していくのだとか。
いちいち自分の意思が否定されるという経験から、
自分達で自己決定する意欲をなくし指示待ちになるのだろうか。
ダメな子育てみたいな話だな。

ある方(何かのコンサルタント)の本で読んだことだが、
備品の置き方から何まで事細かく
全部自分が決めないと気がすまないある社長サンが、
そのコンサルタントの方との面談で、
「ウチの社員はみんな自分から動けなくて困るよ」
とこぼしていたとか。
原因と結果が逆なんじゃないのと思った。
いや本当に部下が無能なのかもしれない。
どっちにしても、その会社の最高権力者がそういうのだから、
どんな内容であれそれが正義になる。

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さて、そんな優秀な人間は自分に対して、
高い自己評価・自己認識を与えているのだろうか。
私はむしろ逆なんじゃないかと思っている。
単純に考えて、どんなにスゴいことでも
それが日常動作レベルであれば高く評価するわけない。
誰でも慢心したら終わりだから基本的にはいい事だろうが、
下位の者を導く力については、また別の問題のようだ。

気骨ある入門者・初級者なら、
少しくらい罵倒されようが必死に喰らいつくが
(何かを習得しようとする者はそうあるべき)、
双方の性格(とりわけ指導者の態度)によっては、
例えば「お前はやる気がない」「才能がない」とかいう
自分の苛立ちを換言したに過ぎない言葉(もはや指導ではない)
を放ったりしてその結果、
本来やる気のあった者の自尊心までをも傷つけたり、
道半ばにして「俺コレには向いていないのかも」
と自ら追い込ませてしまうこともある。

志の低い者なら(お互いのためにも)とっとと放出すべきだが、
単に自分に都合のいい人物かどうかを選別するのと、
外部から区別するのは難しいだろう。
かといって一部の徒弟制度のようなものも、
正当な理由で必要とされてもいるし成果もあるのだから、
「悪しき慣習」など称してしまうのは乱暴すぎる。

そんな具合に指導現場では、未だにその多くが
双方の人間性に依存するという意味でまだまだ問題が多い。
それをシステム化し可視化した素晴らしい会社もあろうが、
そういう先進的なところはまだ少数派なのだろう。

でも私が問題だと思っているのは、
だいたいそういうケースにおいて
力の強い者の言い分しか、
外部にまで聞こえてこないことだ。

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「ホントいい人材が少なくて困る」と言っている
雇う側の企業、採用担当者の反論が聞えてきそうである。
イヤ、彼らは本当のことを言っていると思うよ。
そんな立場の人等から言わせれば確かに情けないヤツは多いのだろう。

でも上の話はみな結局、
「一方(上位者)から(のみ)の意見」であることで共通している。
その内容や結果がどうのではない。
だいたい責任の所在とは上位の者に在るのだから、
誰が悪いのかを決めるのも彼らの自由なのだ。
例えば、
あるスポーツ競技の委員会が自分有利のルールを策定し、
そこに委員自身が選手として参加して対戦相手を招聘し、
相手を負けさせてはその敗因は相手が弱いからと言い切る。
これと意味的には同じことが、
(組織等の)上位者には可能なのだ。

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私達は普段、
どんなに相手が非力で能力に劣り知識不足だったとしても、
あるいは明らかに相手の指摘や意見が筋違いだったとしても、
(だからこそ)その時沸き起こるであろう怒りや
反発反論などをまず抑えて、
否定する前に一旦はそれを受け止めて、
相手の立場・目線を想像し、
その意図を強く感じ取ろうとだなんて、ほとんどしないだろう。
しつこいがこれも正確さの問題ではない。

相手の立場・相手の目線というのは、
自分にとっては具合の悪いものであったりする。
私たちは、
能力レベルが同じ者同士で繋がっていて、
自分の発したい言葉を自分の思考が無抵抗に許しているような状態が、
恐らく一番ラクで気持ちいいのだろう。
「他人から見た自分像」と「自分の考える(そう思われたい)自分像」
との差異を認めてしまうと、
さてどうやってコイツと接しようかと構えてしまう。
でもそれは、その人の誠実さと自分に対して客観的になれることの証でもある。
そうなれないヤツならこんな心配はしないはずだから。

とはいえ自分には分りきったことを
そうでない者に理解させるのって、やはりイライラする。
そんな時「怒鳴る」「ぶん殴る」という悪魔の声が聞こえてきそうだが、
まさか自分の商売相手にそれはできまい。
そういう衝動を我慢することも上位者のストレスなんだろう。
しかし、
世の中に存在する圧倒的多数の異レベルの人達と
どう付き合っていくのか。
たぶんそれがビジネスってやつなんだ。

カルチャースクールというやつに幾つか通ったことがあるが、
あそこの初級者向けの講師の方は、
本当は結構スゴい人なんじゃないかなと思う。

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もうこの章を10何回も書いているが、
たしかこの塊は最初は「広告(文)はどうあるべきか」みたいな話だった。
また話が別の方へ行ってしまって申し訳ない。

なにも世の中の人を優秀な人と
そうでない人に分けようという意図など全く無い。
誰でもその時にいる「場」によって
立場の上下や優劣が巧稚が入れ替わっているだけなのだろう。

前々回に書いた喰い放題の原価分析する知人の彼のように、
普段は優秀な人間であっても、
他人(のビジネス)のことを詳細に想像把握するのは容易ではない。
でもこれは誰にでもいえることだ。
誰だって何らかの仕事に携わっていてそれなりに専門性がある。
たとえば零細商店、クリーニング店の人、八百屋の人とかでもそうだ。
彼らは自分の分野(に近い所)ではエキスパートだし勘も働くだろうが、
全く関係ない分野では幼稚なセールストークに簡単に騙されたり、
的外れな注文つけたり、というのは想像できるし。

で仮にそれらが事実だとしよう。

前回書いたネットニュースの投稿主達は、
その批判内容から汲み取れるように、
「広く世間一般の人達も、
 自分の同様の知識・見方を持っているはず」
という前提の元に言葉を発したように思える。

だとするとこれは同時に、
「自分とは違う知識・価値観を持つ人達のことを
 私は想定することができません(していません)」と、
自らのコメントで白状してしまったに等しいのではないか。

自分の物の見方や考え方・価値観などを
相手(が自分よりも劣るからといって)に押し付ける。
これももはや『戦い』みたいなもんだ。
その相手が自分よりも低い立場、あるいは、
たまたまある事柄について(のみ)低い能力にある
という事実(だけ)が、
宣戦布告にお墨付きを与えてくれるのだろう。

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人は、自分の専門性が高まり何かに秀でてくると、
それにつられて他の大勢をかいかぶる傾向にあるのだろうか。
ならば、そんな自分のものの見方こそが、
世間からみたら少数派かな、くらいの目線も必要なのだろう。
反対に自分の優秀さゆえ大衆を見下ろす人もいるだろうが、
他人の目線・立場・感情などを真剣に想像したり、
そこから「他人から見た自分像」を頭に描こうとしなければ、
投げかけるメッセージが一方通行になってしまうことに
両者の違いはないだろう。

しかし上に書いたように、
このことは一部の優秀な者だけでなく、
ほとんど誰にでも当てはまることなのだと思う。
こんな我々小市民だって普段日常では、
自分の(本当は無知で低い)目線で、
自分よりずっと立派でスゴい人達を
たいして考えもせずに一言で簡単に断じてしまうのだから。

その時私たちは、
知りもしないことを知っている気になっている。

オリンピック出場選手をボロクソにいう連中を
どれだけ見てきたことか。

補遺:

写真展無事閉幕しました。
3日間でしたが本当に多くの方にお越しいただきました。
他方でまた多くの方にもご協力いただきました。
この場を借りてあらためて
厚く御礼申し上げます。
来年同時期にまたやるかという話が既にありますが、
その時期にも本ブログが続いてますように。

東京下町バカ写真屋より。

次号に続く。

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この記事へのコメント
人間の認識や、理解能力。
偏見と正しく見ることを考えてみました。

会社勤めは、他人の評価で決まってしまい、
社会の生き方も、無責任で善良な他人に左右され、
自分が正しいという前提でモノ申す人間が、
自分を絶対に振り返らない社会的悲劇、
クレームを振り回し、ヤカラ化する消費者。

こんな世の中で、
元プロ野球監督の野村克也さんの、
『 他人の評価が正しい 』 という言葉は、
他人の目線、じぶんの目線を検証した上での
じぶんが観えている方の言葉であるという事なのかなと、
ぼんやり考えました。
Posted by フラフラです。 at 2010年05月21日 08:35
いつも鋭いご指摘いただき恐れ入ります。

先日、某国有放送TVで
「近頃の若者は競争意欲も低く日本は大丈夫か」
みたいなよくあるヤツがやってました。
真面目な番組のようですが私個人的にはあまりにばかばかしすぎて
笑いながら見てました。
どうやら日本の未来を心配しているようですが、
その原因は近頃の若者の態度なのだそうです。
競争意欲旺盛な若者が少ないなんて、どうやって知るのでしょうね。
米国への留学人数の減少などを根拠としていたようですが、
テレビでこういうとマトモな論拠に聞えてくるから不思議です。

どっちにしたって、日本の若者をそういう方向へ押し遣ったのは
悪い情報ばかりを流しては悪いシオリオばかりを作り、
未来を悲観して皮肉を言ったり悪い気を国中に蔓延させ、
努力することへの意欲や自己肯定感や、
日本人としての誇りを彼らから奪い取った、
我々大人なんですけどね。

映像・音声・活字を発する人らはそれぞれの媒体を通して
「草食男子」等の記号を駆使し「近頃の若者は」と語ることで、
それらを既成事実化することに成功しました。
そうやって一方的に発することで同時に「自分達(大人)に非はない」
という前提を私達に刷り込むことにも成功しているわけです。

そういう媒体を疑ってみるのも、
客観的になるいい練習になります。
あ、それじゃ私は、
本文中のネットニュースを批判した彼らと一緒ですね(笑)。
Posted by 東京下町バカ写真屋 at 2010年05月22日 22:19