2010年06月16日

『東京下町バカ写真屋』も5周年ということで(第15回)

先週土曜夕方の渋谷にて
前回の続き。

街の書店で、
平積みの売れ筋ハードカバーの本を手にとって、
何気なくひっくり返し値段を見る。
1400円とか1600円とかそんなもんだろう。

一方、
大学の教科書になりそうな
小難しいタイトルのビジネス本?はどうか。
似たような装丁でも2800円とか3600円とかする。

この違いは何なのだろう。

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これまた大学のマーケティングの講義で教わったことである。

値段のつけ方の話であるが、
私達はよく街中などで商品の値段を見ては、
「コレだいたい原価幾らだろうから」
「この値段だとこのくらいが利益なんだろうな」
みたいな事を言う、というのは何度か書いた。
その考え方の道筋はだいたい
『原価+経費+利益=値段』というかんじだろう。
そういう、製造(仕入)原価から経費を積み上げて、
最終的に価格を決めるやり方を「マークアップ方式」というらしい。

じゃ実際にそれが行なわれているのかというと、
進んでいる企業ではそうじゃないらしい。

まず最初に、
商品の企画段階からそのコンセプト、目標とする利益や、
売りたい層(ターゲット)が設定されて、
このくらいなら売れるだろうという価格が設定される。
そして、そこに予算が割り当てられる。
製造原価を含めて経費等はその範囲でやらねばならない。
つまり、
上の算出方式(考え方の順序)とは全く逆になる。
企業や商品・サービスによって多少の違いはあれど、
一番初めに「売れる値段はコレだ!」「これだけ儲ける!」
そして「予算(の上限)」があって、
ゆえに製造・販売コストは
「その範囲内でやれよ」ということになる、
らしい。

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私はかつて、
小さな出版社で勤めていた。
どちらかというと旧体質の遅れている企業だったが、
それと似たような価格設定をやっていた。
そんなに珍しいことじゃないのかもしれない。

本の企画段階で、
AパターンBパターンCパターンというふうに、
一応シミュレーションのようなものが組まれる。
配本部数・価格・想定売上・想定返本部数・販促費用等、
さらにそこからどのくらい利益を得たいか、
ゆえに何部刷るのか等、
それぞれの数字の組み合わせになる。

例えば一般的に売れそうな本なら、
1500円程度の一般的な価格に設定することで、
多くの部数がさばける可能性がある(と想定する)。
よって多くの部数を刷ってどんどん回そう、という判断になる。
また、低単価のため粗利が薄くなるという面からも、
単位当たり製造コストを下げるためにも多く刷る必要がある。

一方、
かなり専門的な書籍や学術書となると、
大きな売上はまず期待できない。
それでも儲けをあげたいとするとやはり、
高価格に設定せざるをえない。
高価格ゆえ粗利も多く取れそうな気がするが、
なにせ売れないだろうし回収にも時間を要する。
よって刷るのは小部数とする。

つまり価格は決して結果的なものではなく、
戦略的意図をもってつけられるのだ。
「○○円かかったから□□円にしよう」ということはない。
ハードカバーだから高いとかいうこともないし、
100頁程度の薄い書籍を定価3000円に設定してもよいのだ。

で、これは全くもって私の想像だけど、
多くの企業がそんなカンジで値段を決めてるんじゃなかろうか。
予算も何も決めずにいきなり作り始めては、
「作るのにこれだけかかっちゃったねー」
「宣伝費とかの経費このくらいかなー」
「で利益このくらいはのっけとこうかー」
「じゃ値段はこのくらいにしとこう」
みたいにバカ単純にやっているとは思えないのだけど。

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何度も書くようで本当に申し訳ないけど、
「全く違うブランド品が実は同じ工場で生産」であるとか、
「このブランドとあのノンブランド品も実は同じ工場」とか、
それと今回の値段付けの話も含めて、
多くの人が知っていることだ。
なのに私たちは普段、
以下のような会話していないだろうか。

「コレたぶん原価○○円くらいだろうから、
 このくらい(利益)とっとかないとやってらんねーから、
 その値段は妥当なところなんじゃねーの」

「こっちの方、それよりも3割(値段が)高いぜー、
 やっぱり素材とか違うんじゃねーのー」

同じ製品を100個つくるのと1万個作るのでは、
同じ製品を100個仕入れるのと1万個仕入れるのとでは、
価格も利益も大きく変わり得る。
でもそれをどうイジるかは業者の自由である。
そしてブランドによっても違うし変えられるし、
委託か買切(仕入)かでも然りである。
詳細を把握しているのは当事者だけ。
しつこく何度も書くが、こういったことを私たちは
己の仕事を通じて既に知っているはずだ。
なのに本分を外れたとたん
無垢な素人に速変わりする。

そういえば、この回で書いた
同じ会社の同僚の『優秀な彼』というのは、
上記の出版社で一緒だった。
でもってその彼も本の企画段階から加わり、
当然値段決めのプロセスについても熟知している。
書籍の1600円とか3200円というのも、
製造コストに起因する結果的なものではなく
戦略的なものだということを、
彼だって知り尽くしていたはずなのだ。

なのに、
喰い放題の店では
独り善がり?なコスト分析をしてしまう(この回参照)。

想像することは大事だけど、
どれだけ店内(他人の会社)を見渡そうとも、
外部の者が厳密な採算分析をするための要件などが
丁寧に陳列されているわけではない。

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私たちは日頃、
商品・サービスの発信者の意図に関係あろうとなかろうと、
ブランドや商品自体・価格といったメッセージを受け取っては、
受け取った以上の情報をアタマの中で
実に好き勝手に展開しているように思う。

皆さん心当たりは無いだろうか。
高い価格が設定されていればそれを見て、
「あー高級品なんだろうなー」となぜか自動的にそう思う。
似たような商品が並んでいて片方が高額だったりすると、
「素材とか何かが違うんだろうな」とか思ったりする。
でもその根拠が明示されているケースは多くはない
(それを積極的に明示していこうとするのがブランドなのだろう)。
それでもなぜか、
高い値段を呈示するだけで高級品と思ってしまう確立は高いのだ。
さしあたり『思考のクセ』としかいいようがない。
その高額な方だけショーケースに入れたりすれば尚良い。
その理由をいちいち説明しなくとも差別化された陳列自体が、
高額であることの妥当性を示したことになってしまう。
というか、消費者がそう受け取ってしまう。

反対に激安の場合だと、
その根拠が明確に示されていないと
「ワケありなんじゃない」とか「何か問題あるんだろーきっと」
などと思ってしまうこともある。
だが一般的な家電量販店などでそういう話はあまり聞かない。

『お前の言ってること矛盾してんじゃねーかよ』

『大量仕入れだから安くあげられるんだろー、
 そんなの知ってるよ』

知っているのは、
それを過去にどこかで聞かされてきたからだ。

私が面白いなと思うのは、
何故それを知っているのか、
どのようにしてそれを知ったのか
についての自意識(自覚)がない、
ということの方である
(お時間のある方はどうかこの回を読んでいただきたい)。

『大量仕入れだから』という激安の根拠が
予め何らかのカタチで明示されているから、
私たちは激安価格に不安を持たないのである。
その根拠でさえも、
本当に根拠であるかどうかなんて分かりっこないのにね。
前回の品質の話と同じだ。

『一流メーカー製なのにこんな安くて、
  品物大丈夫なのかよー』
激安慣れした今はこんな風に思わないだろうが、
こういった感情もこの回で書いた
「認知的不協和」のひとつである。
そういった購買心理への抵抗を生じさせぬよう、
送り手に都合のいい情報の一つがまさにそれである。


『大量仕入れが激安の秘密!』というのは、
激安店側から一方的に発せられた情報であって、
彼らが消費者にそう思われたいから
そう思ってもらえるような情報を出しているに過ぎない。
あたりまえのことのようだが大変重要だ。

消費者が自力で見出した事実であるなどと
勘違いしてはいけない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

恐らく私たちは、
自分達が思っているほど、
自らの意思で情報を取捨択一してなんかいないのかな。

「情報社会」という
なんとももっともらしい言葉も、
とてつもなく陳腐に思えてきて仕方がない。

次号に続く。

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この記事へのコメント
大阪は、新商売を発信する土地柄ですが
その始まりは、日本経済新聞発信の情報ではなく、
町に暮らす方々の、ココロのドブ板をはがして
ひとは、何に お金を払うのかを考える、
『 本音 』 を基本にしたものでした。

解かったつもりになっている鼻持ちならない大衆も、
大阪に大勢居ますが、
成功者は、ひとのココロのみを信じて、
情報には、振り回されないのですよね。

『 信じる者と書いて、儲けると読む 』
大阪の商人が、むかしから言い伝えて来た言葉です。 
Posted by フラフラです。 at 2010年06月19日 00:51
いつも貴重なお話ありがとうございます。

このところの連載で私が申し上げたかったこととは、
「人は自分が思っているほど
 自分の本心(深層心理)を知ることができない」
「ゆえに発する言葉がその人の本心を的確に表現してはいない」
「信じることに根拠は必ずしも必要ではない」
「誰か(媒体)の言っていることがウソとかホントとかではなく、
 人がそれを信じたいからそれが真実になる」
「情報の真偽や良し悪しは、受け止めた人が決める」
「善悪や真偽・良し悪しに関わらずそれが望まれているのなら、
 それを提供できたら正義になってしまう」
ということに要約されるかと思います。

かなり意地の悪い言い方になってしまいますが、
自信のある方というのは、
その分だけ自分に好都合な虚構を信じ続けている人だ、
と言い換えることもできます。
しかし、それはある意味大変理に叶っていると思います。
例えば、旧知の友人がビジネス相手となり、
とても頼りないけど誠実だし、彼(女)を信じて
『私』がカネの面、知恵の面などで手助けしようとします。
相手もそれに応えようと必死で働きますし、皆応援しました。
結果として何とか軌道に乗ったとします。
『私』は彼(女)はきっとうまくいくと信じていました。
というかそう信じたかったのですよね!。
しかし、そのどこに根拠があったでしょうか。
もしかしたら、その彼(女)は商才ゼロだったかもしれないのです。
モノカネもらってトンズラするつもりだったかもしれないのです。
これが(イイ意味で)ウソがホントになった瞬間ですね。
私達の周囲はこんなことだらけではないでしょうか。

自分の信じていることが真実とはかぎりません。
そうである必要もないのかもしれませんし、
その真偽を確認することも難しいのです。
Posted by 東京下町バカ写真屋 at 2010年06月20日 13:04