2011年10月24日

写真屋と健康問題(第2回)

有楽町駅の真下はこんなカンジ


前回の続き。

近所を歩いていても、
かつての学友に出くわすなど、
そう多くは無い。
いや自分の場合はほとんど無いと言っていい。
多くの者は街を出ていったのかもしれないし、
単に生活リズムが合わないだけかもしれない。

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もともと友人が多くはないが、
時が経てば建替や転居は当然あるわけで、
街が同じ姿であり続けることはないだろう。
かつての同級生の何件かは
御両親方がまだそこに暮らしてるし、
同窓生以外にも顔見知りはまだまだ近所にいるわけで、
たとえ建物が新しくなっても
そこにいる人が変わらなければ、
さほど大きな変化とは感じないのかもしれない。

ところが近年、
街の変化、というか時の経過を感じさせられることがある。

近所の顔見知りのオジサン達が相次いで亡くなったことだ。

私がここで言う街の変化とはつまり、
人が「亡くなる」ことを指している。

そして気付くわけだ。
街をかたち作っているているのは
やはり「人」だったんだということを。

ウチの界隈は商店が多い。
働く場所と棲む場所が同じという人が多いのだ。
店をやっているのだから、
その店がどんな様子だかを常に周囲に開け放っている。
どんな店構えでどのような品揃えなのかは、
そこの主人の、
大げさに言えば生きザマを映し出す鏡なんだと思う。
おまけにその家族の生活習慣の断片みたいなものも、
軒先からなんとなく伝わってくるような気もする。
近所の人々やそこを行き交う人は、
その有様を年中見せつけられて脳裏にこびりつき、
それが皆にとっての日常の光景となり
意識することすらないのだ。

だから、
失ってはじめて解るというやつだなコレ。

あそこの角のパン屋には
あのおじさんがいるのが当たり前だった。
特に親しかったわけではないが、
顔も喋り方も今でもハッキリ覚えている。
なんせ私が物心ついた時からそこにいたのだから。
そのパン屋(店)と売っているパンとおじさんや奥さんは、
私の意識の中では一式セットなのである。


私が生まれる前からこの街に暮らしていて、
それに相応な年月を経てお迎えが来るという、
ただそれだけのことだ。
勿論亡くなったことは悲しいし残念である。
だがそれと同時に、
人がいなくなる
(「変わる」「減る」「増える」でもよい)ことが、
まさに街の変化であると、
あらためて強く感じたのであった。

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あらためて言うのも可笑しいが、
やはり街とは「人」なのだと思う。
とすると、
人が変われば(亡くなってしまえば)
街も変わるということになる。

商売をされているところは
ご主人が亡くなってもご家族が引き継いでいるところも多い。
で同じ商売なのだから以前のままかというと、
リニューアルなどのケースはともかく、
完全に同じとはいかず何か微妙に違ったりする。
具体的に説明しずらいのだが、
まずはその人の姿もないし声も聞こえないことの違和感である。
亡くなったのだから当たり前か。
それ以外にも、
商品の並べ方や品揃えとか軒先の植木の置き方なんかの
微細な違いに気付いて、
あらためてその人がいなくなったことを
気付かされたりするのだ。

「なぁそれって『街は人である』っていう話じゃなくて、
 『商売は人である』って話になってないかー?」

その通りだ。
っていうかそう書いたつもりである。

街は人であるし、
商売もまさに人であると、
つくづくそう思うのである。

人が街で商売をしているのであるば、
上に書いたように
その有様がそのまま街の風景になっている。
人も学校も公園も店も道路も恒例行事も、
あるいは考え方や慣習や道徳や気候といった部分も、
そこに暮らす人にとっては恐らく全てがセットなのであり、
それぞれが独立して進化したり変化したりするとは考えにくい。
馬鹿な例えだが、
金持ち向けの超エリート養成進学校が、
所得水準のさほど高くない地域にあえて創設されて、
地域の子供達だけがエリートになっていくなんてことあるか、
そういう話である。
ウチの界隈は住宅密集地で、しかも木造が未だに多い。
関東大震災や東京大空襲で壊滅した地域でもあるから、
地震なんかで火災が発生したら恐ろしいぞと
幼少の頃から散々脅かされてきた。
しょっちゅう非難訓練もやっていたし、
災害地の一時非難場所や経路がアタマに焼き付けられている。
つまり地形や歴史などもその街の一部なのであり、
さらに、
それら一式がそのまま
外部の人のその街に対する印象にもなっていると思う。

街イコール人なのであるから、
人が死んでしまうのであれば、
そういった意味でも街が変化を忌避することなど
不可能だと言える。

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となると、
気になるのはウチである。

私が生まれる1年前から
正式に親父が店を引き継いだ。
それ以降、
面白いほど儲けたようなこともなかったが、
夜逃げや一家離散を迫られるほどの悪いこともなかった。
知的水準も低く生活態度も
決して良好とは言えないが、
なんとかここまでやってこれたのは、
本当に幸いである。

しかし、
「いつまでも〜あるとおもうな〜」ではないが、
上に書いたように近所のかたが亡くなると、
やはり色々考えてしまうものだ。
その亡くなった方々というのは、
外部からはそんな兆候が見られなかった方ばかりだった。
ウチのオヤジよりは年上だったが
皆背筋も伸びて喋り方もシッカリしていたし、
最期の最後まで仕事していた。
亡くなったことが今でも信じられないくらいなのだ。

であるからして
我が家にも「そういうこと」が近づいているというか、
そういうこと自体を意識するようになっている。

比較的大病や大怪我、
あるいは社会的大失態もせず
それなりにウマいことやってきたウチの親であるが、
近年、
そんな親父の仕事っぷりに微妙な変化が見られる。
たぶん本人も意識していない小さなことだ。
別にそれはそれでいいのだが、
それが合理的理由によるものではなく、
私から見れば、
単なる肉体の衰えからくるものなのだ。


約束の地は近いと感じる理由である。


【今日のおまけ】

抱腹絶倒?(ウソ)
5分ほどの面白動画?(クリック!)。
コレを見てしまったそこのアナタ!。
今頃カラダの芯がアツくなっているでしょう(笑)、
ってのは冗談だが、
「街は人である」という観点からも知っておいて損はない。
いや知るべきだろう、日本人なら。

下のコメントにも目を通しておくと
情報処理能力がアップする?(保障はしません)。

関連投稿、
ミラーレス一眼のCMの彼女と、その周辺で
も併せてお読みください。


次号に続く。

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