2014年06月02日

ブログ7周年記念〜戦略的写真屋とは何か(第20回)

平日のせいか静かでした:復興屋台村・気仙沼横丁(宮城県気仙沼市)

前回の続き。

今年も、
例の写真屋商材見本市の案内が来た。

そのイベントについては
当ブログでも何度かネタにさせていただいた。

勿論ウチは出展者なわけないが、
参加するしないに関わらず、
この催しについて考えると
私はなんとも言えぬ切ない心持になる。

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マーケティングの世界では、
「市場のニーズから逆算して商品を考えろ」
が定石である、と教わった。
「これぜったいいい商品だから売ってみよう」
はもう古い!ということだった。
私の無責任な想像によると、
どの国でも多くの市場が飽和し、
そういう経緯で生まれた思考なんじゃないか。
「いいか悪いかは消費者(市場)に聞け」
「製販業者の価値観を押し付けてはいけない」
とか、そんなところだろうか。
考えとしては理に適っていると思う。

しかし働く立場から見て
実際はどうかというと、
商品が世間に投入されて、
それが刺激となり市場が勃興するというケースが、
無くなる気配は全然ないのだ。
写真屋業界なんてカメラメーカーが作ったようなもんだしね。

上に書いた見本市なんかもまさにそうで、
確かにウチらのような末端業者の
要望に沿ったものもあるだろうが、
そんな我々の思考の遥か先をいく
新商品(商材)が数多く登場する。
これらはコストダウン・合理化といった
単に既存のビジネスを補完するものだけでなく、
多角化や規模拡大、
あるいは組み合わせの相乗効果によっては
完全に新しいビジネスモデルになったりするのだ。

本当はウチのような店こそ、
こういったイベントに参加すべきなのだろう。

しかし
これまで散々書いてきた通り、
もうウチにはそうする余力は
残されていない。
見本市に参加する彼らと
商売人としての終活をも意識せざるを得ないウチとでは、
もはや別の生き物と言ってもよい。


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以下も既出ネタだが
今一度ダメ押しさせていただきたい。
これで最後だから。


私が子供の頃、
親が「○○屋さん」というやつがたくさんいた。
だがそういう家庭は当時に比べ
かなり減っているに違いない。

だがそれとは関係なく、
こういったお店屋さん(を開くこと)に対して、
私たちの中には未だに
一種のロマンチシズムのようなものが
こびり付いている気がする。


どこに店を構え何を商売にするかで、
その有様がほぼ決まる。
頑張り次第で一つの店が売上を100倍にすることなどまずない。
例えば八百屋であれば八百屋であるかぎり
八百屋的な市場規模のなかで八百屋らしい売上がある。
車を走らせて買いに来るモノもあれば、
徒歩で買い回る商品もあるだろう。
品物によって購入頻度や金額も違うだろう。
ただ、一度始めた商売が、
そのまま頑張ったら10年後に大企業に生まれ変わる、
なんてことはない。

「街のお店屋さん」の一般的な構造といえる。
もちろん他の業態・商売にもそれぞれの構造がある。

そういった
変え難き基本を意識する(理解する)人は少ない。
少なくとも私の周囲では、
会社員であれ自営業であれ、
それを満足に説明できる人がほとんどいない。
当たり前のような話かもしれないが、
話せないくせに当たり前もなくそもない。

昔の貧しかった日本には
どんなことどんな場所にでも
成長の余地があった。
社会の変化速度も遅く(今と比べて)、
それとの関わりを強く意識する必要も無かったかもね。
馬鹿でも頑張ればその分幸せになれるというのは、
程度の差はあるにせよ真実だったと思う。
だがそれがもう繰り返されないだろうことを、
私たちは感じ取っている。
既存のやり方の多くが通用しなくなっているからだ。

小手先のバージョンアップが効かないのなら、
例えば、
お店屋さん(家業・生業)を止めて事業・企業にする、
つまり構造を変える(脱する)しかない。
換言すれば生き方を変えよということだ。

恐らく相当の辛い決断と作業を要する。

こちらも行ってきました:南三陸さんさん商店街(宮城県南三陸町)







冒頭で書いたロマンチシズムとは、
子供の頃の「大きくなったら○○屋さんになりたい」
という単なる憧れ、
あるいは、
その商売自体の持つ構造(定め)を理解しないまま、
そんな憧れ程度の精神状態で
商売を始めて(続けて)しまうような有様、
のことを指している。

もちろん憧れを持つことは悪くないし、
個人の社会的正義感や興味に従って職業選択するのは、
なんら間違いではない。
古い商売(生き方)に固執して不幸せかといえば、
そんなこともないだろう。

だが、
知っているのか知らないかで、
大差がつくことだってある。
単に八百屋をやり続けて一流総合商品スーパーになれないのは
誰でも想像がつくが、
例えば大規模事業者らによる低価格政策という、
勝ち目のないパワーゲームに乗ってしまうこともある。
やらかしてから嘆いても遅いのだ。

なぜそうなるのか。
事前に学ばないからである。
アタマが悪いからではなく、
学び方を知らないから、
というか、
そんなこと学びようがないとか
思っているんじゃないか。

机上の空論とは誰が言ったか知らないが、
実践(実戦)でしか学べないことも確かにあるだろう。
しかしよく考えてみれば、
先人達が血や汗、涙、時には命まで落として得た英知が、
身の回りに転がっているというのはこれまで書いてきた。
本や学校で学べないようなスゴいことを、
どこかのアタマのいい人たちが記録編集して
「机上の論理」化してくれている場合も多い。
ところが私たちは相変わらず
自分を否定しない優しい事柄にのみ関心を持ち、
信じたいものを信じているだけのようだ。

自分に都合の悪い事実に向き合った時が
本当の学びなのだと、誰かが言っていたなあ。





まあとにもかくにも、
ウチは特に変わることなく年月だけが過ぎ、
見本市に行って新製品新サービスを導入しよう
などという気力も起きないほど年老いて、
その有様に見合った商売が
今日も静かに続いているのであった。

でもそんなに悪いってほどでもない。




*前回「次で最終回」とか言いましたが
 また長くなってしまったので次回に続きます。



次号に続く。




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